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 歩古丹小学校跡は野晒し状態の廃墟と化し、小高い斜面から日本海を見下ろしていた。
集落跡を示す唯一の生き残りで、探検好きなら一度はアタックしてみたいの存在、周囲はブッシュの侵入が激しく藪漕ぎの斜面をよじ登り校舎に辿りつく

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白い固そうな破片が転がっているのはトイレの便器と思われ、廃校ではよく見かける残骸、正門と思われる枠は海側に残っていた。
この集落に開拓が入ったのは明治20年代で、日本海側の厳しい環境だったのは想像に難くない
すぐ北にある増毛や留萌市はニシン漁全盛期で賑わっていた頃で、小学校は明治25年に簡易小学校でスタート、背後は断崖地形なため集落へは険しい山道しかなく船での往来が唯一の手段だったそうだ。

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その後、分校の小学校に昇格したがニシン漁の衰退とともに住民が去り、小学校も昭和46年に廃校となった。
当時でも船が唯一の交通手段と陸の孤島が長く続いた地域で、陸の国道開通は10年後となる昭和56年秋、
高度経済成長や自動車社会、テレビ情報社会などとは無縁の生活?、「北の国から」や「俺ら東京さ行くだ」(吉幾三)の歌詞より厳しい生活だったと予想される。(古くてスイマセン)歴史話はこの辺で、 

窓は吹きさらし、屋根は骨組みだけが残る現代アートの世界?
教室や廊下も草木の侵入が激しい中、黒板やロッカー跡などが当時を偲ばせながら最後の意地を見せているようだ。

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校舎自体は小規模で、全校生徒もかなり少なかったと思われる。裏には焼却炉用の煙突も残っていた。
少しウロウロしてみるとトタンや鉄板、食器など生活の跡も散乱、懐かしいファンタの200mlビンも見つけた。
集落はこの校舎跡がなければ、人々の記憶からも忘れ去られていたことだろう

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草木の侵入が激しい廊下跡

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海岸線と周辺をさらにとウロウロすると、石垣の土台跡、建物の骨組み跡などが見つかった。
今回は見つけられなかったが、小規模な鉱山もあったようで試掘りも行われたようだ。

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